2026.05.14

book

人類堆肥化計画を読んでいる。発想はおもしろいが、露悪さを倫理の強化で補強していてつまらなく感じる。自身が育てた生き物を生きるために殺すことで、悪行を犯す悦びを得られると著者は述べていて、それは勝手にしたらいいのだが、罪悪感を煽り立てるためのアプローチとして、個人倫理による他者の感情の規定というやり方をとっている。いろいろなことに対して罪悪感が希薄な自分としては悦びを得るための欲望で駆動したいと思うのだ。罪悪感は香辛料と著者は語るが香辛料のために料理を食べたいと思う機会は少ないだろう(と書いたが、そうとも限らないかもしれない。そもそも罪悪感が香辛料という例えが不正確にも思えてきた)。生きることの罪を楽しむという出発点から、個人倫理による扇動へ捻れてしまうこの奇妙な展開に、欲望を語り共有することはもしかするととても難しいのかもしれないと思った。
欲望を語ることの抵抗は、欲望それ自体が社会的にどういった位置に置かれるかによって内実が変わってくるのかもしれない。他者へ語ることを前提にした自己分析はどうしても過度に波立っているように見える。できるだけ平静に試みてみる。内心(覚悟や決意など)は持ち出さずに、履歴から振り返るといったことが必要なのかもしれない。
自分の、創作することの欲望について考えてみる。音楽制作を始めたのは中学生の頃にアジアンカンフージェネレーションを聴いて、音楽は聴いていて楽しいし、こういうものを作ってみたいと思ったためである。既存の曲のコピーをしようとは思わなかった。これは多分コピーというものが手間の割に実績(何の実績かは不明だが)にならないと感じていたから。いまではオリジナル曲を作る上で大事な作業と認識しているため少しだけやっている。やりたくないことの話は簡単だが、なぜやりたいのか話すのは難しい。こっそり考えようと思う。
子供にそろそろゲームをやらせてもいいのかも知れないといろいろ調べていたが、急にポケモンチャンピオンズがやりたくなってきた。この欲望は。

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